湯平温泉の歴史
日本有数の名湯として栄えてきた湯平温泉 ~その歴史は800年前の鎌倉時代から~
湯平温泉の開祖は、およそ800年前の鎌倉時代と言われています。
現在のような温泉街の骨格が出来上がったのが江戸後期で、湯平温泉の中央を流れる花合野川に沿って作られた坂道の石畳は、今から約300年前の江戸時代に工藤三助という人を筆頭に村民によって作られたのがきっかけです。
江戸時代に書かれた「豊後国志」にも記録が残っていることからも、当時から有名な温泉地だったことが分かります。
江戸時代には温泉湯治で訪れる客の多くは経済的な余裕のある富裕層や士分などの限られた人達でしたが、明治時代になり時代背景が変化していくと共に様々な制約が解かれ、大衆が利用できる湯治場として発展をしていきます。
その当時では医薬品なども普及しておらず、湯治が最高の療養方法とされていたこともあり、江戸時代初期から胃腸病に効くことが有名だった湯平温泉は次第に多くの湯治客が訪れる温泉地となっていったのです。
それ以来、湯治場としての発展を続けてきた湯平温泉は、大正から昭和初期にかけて、さらに大きな温泉地として全国的に有名になっていく一時代を築き上げます。
明治期までは坂道に沿って茅葺きの湯治場が並んでいましたが、明治45年4月20月に起こった大火により、旅館や民家のほぼ全戸を焼失します。
しかし、著名な温泉地としての需要があったため、火災直後より共同浴場や旅館、商店、発電所などの再建が行われ、火災から約2~3年程で以前よりも活気のある温泉街を取り戻した経緯があります。
昭和になり、全国でも珍しい共同浴場の無料開放が行われ、多くの人が温泉を楽しみました。
戦前に療養型温泉として有名になってからは、別府温泉に次ぐ九州で第2位の入湯客を誇る温泉地として西の横綱に番付されたのもこの頃です。
当時、大分~湯平間を走る大湯線湯平駅前に並ぶフォードのタクシーの列を見れば、その繁栄ぶりを見ることが出来ます。
さらに、木造四階建ての旅館がたったのもこの頃で、今もその建物が一部残っています。一度湯平温泉に訪れれば、その歴史を垣間見ることができるでしょう。
その後も温泉観光地や療養地として、人々を癒す役割を持ち続けて現在に至ります。
また、昭和5年には俳人・種田山頭火が湯平温泉を訪れ宿泊した際に、「しぐるるや 人のなさけに 涙ぐむ」などのいくつかの名句を残しています。
現在も石畳通りの入り口と、湯平温泉街を見下ろす高台にある菊畑公園(湯平温泉街から徒歩で約30分)には、「種田山頭火句碑」が置かれ、この地を訪れる観光客の方々を見守っています。
その他にも、昭和57年(1982年)12月に公開された映画「男はつらいよ」シリーズ第30作目の「花も嵐も寅次郎」のロケ地にもなりました。
当時は寅さん役の渥美清さんをはじめ、沢田研二さんや田中裕子さんが湯平温泉を訪れ、撮影が行われました。
今でも映画の中で昭和の湯平温泉を見ることが出来ます。